クルムシュンデリ

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 ある冬のことだった。ぼくは三十四丁目の通りを東に向かって歩いていた。冷たい風が左側からビュービューと吹いていた。細かな雪も混ざっていた。
 ぼろぼろになったリュックのストラップを力強く握り、目を細めながら歩いた。視界は悪い。でも、なかなか悪くないな、とぼくは思った。それは実際、なかなか悪くないものだった。
 やがて視界もよくなり、雲の隙間から太陽が顔を出しはじめ、百メートルばかり向こうを見渡せるようになった。とはいえ道はただただ広く平坦だった。見渡せるようになったところで、限りなく何もない土地が広がっているだけだった。
 ふと、その向こうから誰かが歩いてくることに気が付いた。百メートルの距離をへだてていても、わかった。彼女は美しかった。

 

 彼女は歩くペースをゆるめもせず、早めもせず、メジャーで計ったような歩幅で進んできた。まるで都会のショーウインドに反射するOLの足もとみたく、コツッ、コツッ、と。お互いが認識できる距離に近づくと、彼女はちいさな会釈をした。ぼくもうなずくようにそのマネをした。すれ違いざまに彼女は言った。
「この先は行き止まりよ」
 白く透明感のある声だった。
 ぼくは立ち止まった。その声につられたのだ。そして振り向いて彼女を見た。彼女はほほ笑んだ。頬が赤く染まっていた。
「クルムシュンデリがでるのよ」彼女は言った。「だから行くべきではないわ」
「クルムシュンデリ?」ぼくは訊いた。
「そうよ」彼女は大きく頷いた。「とても大きな怪物なのよ。腕が一九六本もあるの。いや、とても大きな壁だったけな。とても大きな子ねこだったかもしれない。腕が一九六本もあるの」
「とにかく大きいんだね。そして腕が多い」
「そう、とにかく大きいの。腕が一九六本もあるの。だから行ってはだめよ」
 ぼくは素直に彼女の助言に従った。回れ右をし、彼女の横に並んだ。そして自然と歩き出した。彼女の歩幅をぼくはマネした。でも、彼女もぼくの歩幅をマネしていた。まるで二人三脚をしているかのようなぎこちなさがあったが、十歩も歩けばそれらは揃った。ぼくらは似たような歩幅で歩いた。
 彼女はぼくより頭ひとつ大きかった。そしてゆらゆらと頭をゆらして歩き、ときどき唄を口ずさんだ。
 風が吹くたび、彼女のかみの毛はぼくの頬に触れた。
 彼女はそのことをちっとも気にしていなかった。
 歩きながら、ぼくと彼女はさまざまな話をした。
 
「オオカミとアラスカを旅したの」と彼女が言えば
「砂漠で飲む水は最高なんだよ」とぼくは言い
「メロスに50メートル走でぎりぎり負けたわ」と彼女が言えば
「太宰は酒が弱くて退屈だったね」とぼくは言った
「じつはシャーマンなのわたし」
「奇ぐうだね! ぼくもだよ!」
「それはうそよ! でもわたしはほんとよ! あなたを呪い殺すこともできるのよ!」
「シャーマンってそんなことできるの?」
「さあ。できるの?」
「知らない」
「シャーマンってなに?」
「さあ」
 
 
 歩き疲れたら喫茶店に入り、コーヒーを飲んだ。お腹が減ったらあずきがたっぷり乗ったトーストを食べ、眠くなったら埃だらけのモーテルに泊まった。埃くさい毛布をふたりでかぶりながら、埃がたまったような古い映画を見た。彼女はチョコレートキャンディを食べ続け、「やだ、また太ったわ」と百回ぐらい言っていた。ぼくは牛乳を飲み続け、下痢をした。そのようなことがありながら、ぼくらは歩き続けた。
 途中、何度か道を曲がろうとしたものの、けっきょくぼくらはまっすぐ進むことを選んだ。山を越え、川をくだり、クロールで海を渡り、パトカーを盗んで走り続けた。
 彼女はパトカーの窓から上半身をさらし、大声で叫んだ。
「こういうのって最高ね!」彼女のかみの毛がバサバサとなびいた。
「危ないからやめなよ」ぼくはバックミラーで後ろの車に目をやりながら、左手で彼女のくるぶしをつかんだ。細いくるぶしだった。
「ねえ見て! あの警官、すごく怒ってる!」
「そりゃそうだ」
「世の中はこんなに平和なのに!」
 そう言うと、彼女は後部座席にいる警察官にウインクをした。ガムテープでぐるぐる巻きにされた警官は飼い主を失った鸚鵡のようにしくしくと泣いていた。
「スピードをあげて」彼女は叫んだ。
 ぼくはイエスと答える代わりにアクセルを思いっきり踏み込んだ。彼女はけらけらと笑いながらサンディエゴの風を感じていた。
「ねえ、ボブ・ディランを流してちょうだい」
 
 
 ある日、自由の女神を右手に見ながら彼女は訊いた。
「ねえ、あなたはどこに行くつもりだったの?」
「――わからない」ぼくは言った。「とりあえずどこかに行きたかったんだ」
 ふうん、と彼女は言った。手にはチョコレートキャンディを持っていた。彼女のバッグのなかには、おそらく百年分ぐらいのチョコレートキャンディが入っている。
「きみは?」ぼくは訊いた。
「わたしは歩きたかったの」
 ぼくらはずいぶんと歩いていた。気がつけば、ぼくは彼女より頭ひとつ大きくなっていた。
「たくさん歩いたよ。たぶん四千万キロぐらい」ぼくは言った。
猿の惑星も見た。鮫とも戦った。スピルバーグの映画にも出たし、きみはメロスとのリベンジも果たせたじゃないか」
「あれはフェアじゃなかったわ」
「勝負はいつだってフェアじゃないのさ」
 彼女はしずかにため息をついた。そしてぼくを見て、にっこり笑った。
「歩くのが好きなの」彼女は言った。「歩いて歩いて歩いて、さらに歩くの。なんのためとか、どこに向かってとか、そういうのは興味がないの。メロスに勝てたのは嬉しかったわ。でもそれは、メロスが友のために走らなかっただけ。彼は目的を失っていたの。目的を定めたら、それがなくなったときに進めなくなるんだわ。それはいや。ただ歩くだけ。歩くのが好きなの。考えることはきらいなの。あ、はとバスだ」
「でもぼくは――」と、はとバスのお姉さんに手を振りながらぼくは言った。「あのとき立ち止まってよかったな。もしあのまま進んでいたら、きみとこうやって話すこともなかったし、らくだのコブがやわらかいことも知れないままだった。あそこに水は入っていないんだね。それに、もしかしたらクルムシュンデリにやられちゃってたかもしれないし」
 ぼくらはまだ歩いていた。でも、しばらくのあいだ、お互いに黙りこんでいた。太陽が沈み、夜のカーテンが空を覆い、再び太陽が昇り始めた。まばゆい光を浴びながら、彼女は言った。
「――クルムシュンデリ?」
「うん、クルムシュンデリ」
「なにそれ?」
「――とても大きな怪物。腕が一九六本もある。いや、とても大きな壁だったけな、とても大きな子ねこだったかもしれない」
「こわいわ」
「こわいよね」
「でも子ねこは好きよ」
「ぼくも」
「ねえ――」と彼女は立ち止まり、空をぼんやりとした目で眺めた。
「いつか、子ねこを飼わない? 広いお家に住んで、庭にパイナップルの木を植えるの。蛇口からはミルクが出てくるの。子ねこのエサも出てくるの。そして夜はパイナップルの木の上でお月さまを見ながら眠るの。もちろん落っこちたときのために、ハンモックを吊りさげておくわ。あなたは寝ぞうが悪いからね。クルムシュンデリも喜ぶわ!」
「クルムシュンデリ?」
「まったく、ねこの名前よ!」
 
 クルムシュンデリは腕が一九六本ある大きな怪物、もしくは大きな壁、あるいは、ぼくらの飼う子ねこの名前だ。まだ見かけたことはないが、ある女性が言うには、「やわらかい肉が好きで、スクーターで熱海を走るのが趣味」とのことだ。目的もなく歩くときは、気をつけなくてはいけないよ。とにかく得体がしれないんだな。でもクルムシュンデリよ、ぼくはおまえが大好きさ。なにせおまえがいなかったら、ぼくは彼女と出会えていなかった。クルムシュンデリよ、いつかお前のバイクの後ろに乗せておくれ。そして熱海の海沿いをひた走ろうではないか、クルムシュンデリよ。