アール
二月のある晴れた日にぼくが家の近所にある公園のすべり台の下をくぐったときどこからともなく声をかけられ振り向くと声の主は友人のアールだった
「何してんだい、こんなところで」
「いや、まあいろいろだよ」
「どこかに行くのかい」
「ちょっとオペラを見にね」
そう言ってぼくは公園にあるすべり台から離れ駅へと向かって歩きだしたが、当然オペラに行く格好なんかではなくて、コンビニへ立ち寄ることすら逡巡しかねるねずみ色のスウェットズボンに紺色のダウンジャケットといういでたちだった。
アールはぼくの見栄をわかっているのかあるいは何もわかっていないのか、「オペラは椿姫しか知らないな」と言ってぼくの後をついてきて、ひとりぶつくさと喋りだした。
「春になればこの辺は桜で満ちるんだ、人は少ないけどそれはそれは見事な桜でね、薄いピンクの花びらがひらひらと舞うだろ、すると小さな子どもがさっきのすべり台のてっぺんに上がって空に手を伸ばすのさ、母親はその様子を心配そうに見ているんだけど子どもはちっとも気に留めてないというか、背伸びをしたり、ふらふらしたりしながら、手を伸ばすのさ、その姿が、おれは好きだ」
駅までたどり着くと彼は小学生のようにまたね、と言って小走りで去っていった。ズボンのぽっけに手を突っ込み、やけに背中を丸めながら。