拝啓 クルムシュンデリ

拝啓 クルムシュンデリ

    クルムシュンデリ、今日は突然訪ねてしまって申し訳ないと思ってる。言い訳をするわけじゃないんだけど、ぼくは普段ああいった行動をとることはしないんだ。チープなドラマで、「ごめん、来ちゃった」的なセリフを吐くシーンをよく見かけるけど、ああいうのは相手への思いやりに欠ける気がするし、なんだか白ける感じもする。それに、相手に何かしらの予定があったら、ただただ困らせてしまうだけじゃないかって、ぼくはそう考えてしまう。


    それでも、昼にブレイクがかかり、夕方まで好きにしていいと言われたぼくは、四月の風が気持ちよいこともあり、ろくに考えることもなく電車に乗り込んでしまった。帰りの電車を調べたり、外の景色を眺めたり、ぼんやり考え事をしていたら小田急線に乗り換えていて、連絡をすべきか悩んだんだけれども、そのときのぼくはチープな演出をしてみたい気持ちにかられてしまい、けっきょく連絡はせず、そのまま行くことにした。たったの数時間、いや、もっと短いかもしれない。それでもぼくは会いたかった。紅茶を飲んで、二、三回のまばたきで帰り支度を始めることになったとしても。


     けれども、 いつもの駅で降り、いつもの道を歩き出すと、きみの家に向かうのが怖くなってきた。途中で立ち止まり、駐車場の隅っこで煙草を吸った。お茶を飲み、歩く人たちを眺めた。今からでも連絡をしようかと思った。連絡もなしに行くなんて迷惑じゃないか、そんなことして何になるんだ、と。何を恐れていたのか、自分でもわからない。色々な可能性が頭によぎったんだ。それらが混ざり合い、得体の知れない何かになってしまったんだ。


    きみの家のドアをノックしながら、ぼくは苦笑いを浮かべた。ドア一枚を隔てた先にきみがいる。ドアが開けば、きみに会うことができる。でも、しかし、彼女は一人なんだろうか。ノックをしても、反応はない。一人じゃないかもしれない。もしかしたら誰かといっしょかもしれない。ぼくはそんなことを考える。半ば冗談で、半ば真面目に。ドアをノックされ、部屋の中であたふたしているかもしれない。裸でベッドに寝転ぶ男の人が慌ててズボンを履いて、そのズボンは前後ろ逆だったりして、さあどうしようって間抜けな顔を浮かべているかもしれない。そんなことを考え始めると、ドアの前で立っている自分が途端に情けなく感じ、ささっと回れ右をして帰ってしまいたい気分になった。

   ドアが開かず、ビデオ会議の最中だときみから連絡が来たとき、ぼくはなんというか、手榴弾を丸呑みした男みたいな気分になった。時間を潰すためぶらぶらと駅に向かって歩いていると四人組の男女とすれ違った。一人の女の子が持っているカフェオレを見て、それが甘いのか甘くないのか、そんなことが気になった。


    過去の経験がどうとか、昔のあれこれがどうとか、おそらくそんなことは関係ないんだろう。傷付かないよう、深い傷にならないよう、過去を引っ張り出し、都合よく解釈しているだけだ。つまりはぼく自身に問題がある。そのことはわかりきっている。

    でも、言い訳をさせておくれ。以前のぼくは、99パーセントの疑わしさも、それが100パーセントではない限り、単なる「疑わしさ」でしかないと考えるそれなりの楽天家だったんだ。それは今でも大して変わっていない。本当に変わっていない。きみはぼくに、「変な妄想をするな」と叱咤する。「そんなの、明日地球が滅亡するって怯えるようなものだよ」と。たしかに、ぼくのトンチンカンな考えは余計な妄想によって育まれているから、きみの言い分は正しい。と、そう思う反面、その妄想こそがぼくにとって、またぼくらにとって、必要不可欠な要素なんじゃないかと考えもするんだ。

    不安、焦燥、厭世、羨望、歓喜、至福。いいことも悪いことも、すべては妄想から始まっていく。きみとの始まりも妄想からだった。狛江のアパートで、ぼくはテーブルに頬杖をつきながらきみのことを考え、勝手に落ち込んだり、勝手に喜んだりしていた。きみとの終わりも——それが訪れるならば——妄想によって始まるんだろう。きみとしたいあれこれも、話したいあれこれも、眠りにつく前のささやかな妄想があってこそだ。それがなくなってしまったら、なんて世界は味気ないんだろうと、誰もがきっとそう思う。


    でも、妄想は妄想でしかなく、現実は、まったくもって違う。きみがドアを開き普段通りの姿で出迎えてくれたとき、靄はどこかへ去っていってしまった。部屋のなかは昨日とさほど変わらないままで、ベランダに半裸の男の姿もなければ、きみの服のボタンが掛け違っていることもなかった。違うのは、テーブルの上に、食べ終えたババロアの形跡があるぐらいだ。それからの二時間半、きみはいつも通りのきみだった。紅茶を飲み、クッキーを齧り、耳の裏の匂いを嗅ごうとする。

    その当たり前さが、昼間に吹いた四月の風に似ていて、やはり、とても心地がよかったんです。