小説

アール

二月のある晴れた日にぼくが家の近所にある公園のすべり台の下をくぐったときどこからともなく声をかけられ振り向くと声の主は友人のアールだった 「何してんだい、こんなところで」 「いや、まあいろいろだよ」 「どこかに行くのかい」 「ちょっとオペラを…

クルムシュンデリ

ある冬のことだった。ぼくは三十四丁目の通りを東に向かって歩いていた。冷たい風が左側からビュービューと吹いていた。細かな雪も混ざっていた。 ぼろぼろになったリュックのストラップを力強く握り、目を細めながら歩いた。視界は悪い。でも、なかなか悪…

売れっ子作家

ある土曜日の午後、ジェイミーは分厚い原稿の束を持って向かいのアパートの203号室をノックした。初老の男が10センチほどドアを開いた。 「できたのか?」 「一応は。でも――」 「明日のこの時間にまた来い」 原稿を受け取ると彼は勢いよくドアを閉めた…

ある午後の妄想

そのとき彼はインドリコテリウムについて何一つ知らなかった。史上最大の陸生ほ乳類であり、体が大きいせいで環境の変化に適応できず絶滅した象のことなど、知らなくて当然だ。誰だって知らない。 わたしたちは家の近くにある、汚く狭い喫茶店にいた。ほかに…

ぎゃふん  

ある日ふとねこにぎゃふんと言わせてやりたくなったのでぼくはねこを膝の上に抱え「おい、ぎゃふんと言ってみな」と声をかけた。 ぼくが飼っている(というかいつの間にか居座っている)ねこは優秀で、読み書き計算以外はなんでもできた。つい先日も調子の…

津軽

斎藤くん。なぜ生きているのかと、わたしはときどき自分へ訊くのですが、するとその問いは、なぜ死なないのかと、そのように勝手に変換されわたしの元へ届き、それは、わたし自身を、ひどく混乱させます。わからないからです。 なぜ生きるのか、ではありま…

斎藤くん。わたしは、ある人に惚れた。昔から人に惚れやすいのか、ちょっとやさしくされたり、くすりと笑ってくれたり、小説の好みが似ていたりすると、それだけで惚れてしまうようなのです。 ばかみたいでしょう。じじつ、わたしはばかなのです。ばかではあ…

明大前の女の子

本を手にしている人をみかけると、何を読んでいるのか気になってしまう。いったいいつからその癖が始まったんだろう。また、いつになれば終わるんだろう。そのときぼくが考えていたのは、だいたいそんなことだった。 朝六時十三分の駅のホームには、オレン…

染み

「ものをもつことよりも捨てることのほうがむずかしいのさ。画家だって継ぎ足すよりそぎ落とすほうが難しいっていうしね」「捨てちゃうの、全部?」「まあね。捨てるかもしれないし、捨てないかもしれない。できれば捨てたいな。だって、不要なものばかりだ…