染み


「ものをもつことよりも捨てることのほうがむずかしいのさ。画家だって継ぎ足すよりそぎ落とすほうが難しいっていうしね」
「捨てちゃうの、全部?」
「まあね。捨てるかもしれないし、捨てないかもしれない。できれば捨てたいな。だって、不要なものばかりだからな」そう言うと男は部屋のなかを見渡した。「本もだな、おれは小説が好きだ。うん、小説が好きなんだよ」
「知ってる」
 男は立ち上がり、本棚の前まで進むと、一冊の本に指をかけ、二センチ手前に傾けた。しかし取り出すことはせず、また棚の中に押し戻した。
「いや、どうだろう。おれは小説を好きでもなんでもないのかもしれない。ただ読んでいるだけだ。人よりも読んでいることはたしかだし、今までずっと小説を読むのが好きだとばかり思っていた。でも、好きなのかどうか、よくわからなくなってきた」
「来週のサーカスには行くの?」
「いや、行かない」
「どうして?」
「行けたら行くよ。熊は見たいし。でも、いまのところは行けない。なあ、おまえは小説についてどう思う。その、おまえもたまには小説を読むだろう。いや、小説は読まないかもしれないが、絵本ぐらいは読むだろう。どういう気持ちで読むんだい」
 六歳になったばかりの少女はその質問に答えなかった。うつむき、ラグの毛をちいさな指でむしりとっていた。
「なあ、そうするのはよくない」男はやさしくそう言って、その場にしゃがみこんだ。少女の手は止まらず、毛づくろいをするねこのようにラグをむしった。男は彼女の顔を覗き込もうとしたが、彼女は頭のてっぺんを彼に向けたままだ。
「おい、やめるんだ」男は少し語気を強めていった。
 一瞬、妹の手は止まったが、すぐにまたむしりだした。「これ、見て。染み」
「そうだな、染みだ」
「いつからあったのかな。もう、ずっと前からあったのかな」
「ずっと前からあったのかもな。なあ、昼飯の時間だ。何が食べたい?」
「パスタ。ミートソース」
「よし。ミートソースパスタならすぐ作れる。ちょっと待ってろ」
 兄は立ち上がり、妹の頭をポンポンと叩きいた。それからキッチンへと向かった。
 妹は兄の背中を一瞬だけ見たが、すぐにラグの染みに目を戻し、微笑んだ。その染みがいつからそこにあるのか、彼女は気になっていた。その染みがいつかなくなるのかも、彼女は気になっていた。なくなってほしくないのか、それともなくなってほしいのか、彼女は自分でもよくわからず、それもまた気になっていた。いつかなくなるのだろうか。いつかなくなり、さらにその染みを覚えているわたしと兄がいなくなったとしたら、その染みは最初からなかったことになるのだろうか。
 彼女を悲しみに似た感情が襲った。しかしそれは悲しみではなかった。似ているが、ちがっていた。
「ほら、最高のミートソースパスタができたぞ」兄は、湯気が沸き立つ皿を二つ持って戻ってきた。
「いつもとおんなじ味のやつ?」
「そう、百回作ってもおんなじ味だ。まったく、レトルトってのは偉大だよ」
 テーブルを使わず、ふたりはラグの上に座ってパスタを食べた。テーブルの上には読みかけの小説と、途中で放置したままのぬりえがあったから。
 また染みができるかもしれない、と彼女は思った。フォークの上に乗ったソースをちょっぴりと落とそうか彼女は悩んだ。怒られるかもしれないけど、それでもいいと、彼女は思った。