売れっ子作家

f:id:kangaeruhibi:20200105153432j:plain

 ある土曜日の午後、ジェイミーは分厚い原稿の束を持って向かいのアパートの203号室をノックした。初老の男が10センチほどドアを開いた。
「できたのか?」
「一応は。でも――」
「明日のこの時間にまた来い」
 原稿を受け取ると彼は勢いよくドアを閉めた。ジェイミーはポケットに手を突っ込み来た道を戻った。
 二時間後、電話が鳴った。
「傑作だ!」初老の男は叫んだ。
「そうでしょうか。実を言うとぼくには――
「傑作だよこれは。素晴らしい。特にどこがというわけじゃないが、傑作には違いない。フランツ・カフカの『失踪者』サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』アルベルト・カミュの『異邦人』いや、どれもこれもこの作品ほどじゃない。傑作だ。素晴らしい」
「ぼくはそんな――」
「いまから出版社に持ち込むぞ。知り合いの編集長には話をつけてある。一時間前にファックスで原稿を送ったんだ。もう読み終えてるはずだ」
「今からですか?」
「ぐずぐずするな。一秒だって無駄にできん」

 

 二人は車に乗り込んだ。シートベルトを閉めるのに手間取っているうちに車は出版社についた。おんぼろのエレベーターで七階まで上がった。原稿は初老の男が腕に抱えていた。
「読んだか?」初老の男は編集室のドアを開けるなり大声で訊いた。
「読んだよ」眼鏡をかけた丸顔の男が応えた。
「どうかね?」
「愚問だよ。傑作だ」
「この男が書いたんだ。天才だよ。まさしく天才というやつだ」初老の男はジェイミーの肩を強く握った。ジェイミーはうつむいたまま何も言わなかった。
「きみが書いたのかね?」編集長が訊いた。
「そう言っただろう」初老の男が言った。
「彼の口から訊きたい。にわかに信じがたいからね。本当にきみが書いたのかね」
「ええ。ですが――」
「こりゃ驚いた。まさか二十歳そこそこの青年があれを書いたとはな。まったく信じられん。ドストエフスキーガルシア・マルケストルストイ、彼らが束になって才能と知恵を出し合ったってあんな小説は書けないよ。いやはや、同時代に生まれたことを神に感謝したいね」
「そうだろう。同じことをわたしも思ったよ」
「誰もが思うさ」
「早速出版の手配を進めてくれ」
「愚問だな。もう手配済みだ。最優先で進めさせているよ。初版で十万刷らせるつもりだ」
「足りるわけないだろう」
「もちろん。印刷所は二ヶ月独占状態になる。フル稼働しろと命令したよ。もちろん土日もだ。この作品のみを印刷しろとな」
「当然だ」
「当然だろうとも」
「あの」ジェイミーが重い口を開いた。「ありがとうございます。ひとつお伺いしたいのですが、その、どのへんがよかったんでしょうか」
 編集長は眼鏡をくいと上げ、親指で鼻先に触れた。鋭い目でジェイミーを見つめ、こう言った。
「わたしは神も仏も信じない。幽霊、超常現象、手品や占い催眠術や量子力学さえ信じない。だが、この作品が傑作であることは疑わない」
 ジェイミーは続きを待った。が、編集長は眼鏡を外すと目をぎゅっとつむったまま何も言わなかった。
「印税は十五パーセントもらおう。前金で二千万ほどほしい」
「二十パーセントでいい。それでも十分とはいえない。前金は会社の銀行口座にあるすべての金を渡しても構わない。関連会社を含めたすべてのだ。それほどの金額じゃないが、少なく見積もっても十億はある。話は通してある」
「次回作の約束はできんぞ」
「構わんよ。この作品ですべてペイできる」
 ジェイミーはぼろぼろのリュックから原稿用紙の束を取り出した。「実はもう一作あるんです、じつを言うとこっちのほうが自信があって、時間があるときでいいので――」
 編集長はそれを受け取りざっと目を通した。一枚目の半分ほどで初老の男に原稿を渡した。
「くずだな、これは」編集長は言った。
「ああ、こっちはくずだ」初老の男は同意した。
 エレベーターのなかで二人は黙っていた。初老の男はくすくすといった笑をこらえていた。
「さっさとあのオンボロのアパートを出よう」
「――いや、引っ越しはまだいいです。あの部屋は静かだし、日当たりもいいし」
「馬鹿をいうな。傑作を書いた人間はワンルームのアパートになど住んではいけない。生活保護の人間すらもっとまともな部屋に住んでるぞ。聞け、いい家があるんだ。少々金はかかるが、いい家だ。部屋数は三十二。リビングは体育館なみに広く、床はすべて大理石だ。バスルームは四つ。トイレは六つ。二十五メートルプールが二つあり、ひとつは温水だ。屋上にはバスケットコートがあるし、おまけにキリンも付いてくる。壁にかかってる絵はすべて本物だ。シャガールダヴィンチ、ダリ、なんでもある。今日もらった金だけじゃ足りないが、半年もすれば印税が入るはずだ。家だけじゃなくなんでも買える。国ひとつが買える。うそじゃない、本当に買えるぞ」
 初老の男は興奮した様子で話した。エレベーターが一階に着くと子連れの親子が扉の前に立っていた。
「どけ、愚民たち」と初老の男はいった。「おまえら底辺の連中はエレベーターなど使うな。階段を使え。傑作を書く人間と同じ空気を吸えるだけありがたいと思え」
 親子はぽかんと目を見開いたまま初老の男を見た。子供は絵本を抱えていた。初老の男がそれを取り上げ、真っ二つに破いた。
「こんなくだらないものを読むな!」
 子供は泣き出した。ジェイミーもまたひどく傷ついた。『はらぺこあおむし』は彼も大好きな作品だったのだ。