ある午後の妄想

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 そのとき彼はインドリコテリウムについて何一つ知らなかった。史上最大の陸生ほ乳類であり、体が大きいせいで環境の変化に適応できず絶滅した象のことなど、知らなくて当然だ。誰だって知らない。
 わたしたちは家の近くにある、汚く狭い喫茶店にいた。ほかには誰もいなかった。店主さえほとんどの時間いなかった。カーテンのない窓際の席に座っていた。テーブルにはジンジャーエールとアイスティーがあった。ジンジャーエールは炭酸が抜けきっていて、アイスティーは砂糖水より甘かった。わたしたちは交互に煙草に火をつけた。煙を吐き出しながら、二分後には忘れてしまう会話を楽しんでいた。底にバンビの絵が描いてある黄色の灰皿に灰を落としながら、彼は、帰りに盗んでしまおうという目をしていた。
 彼はよれよれのティーシャツを着ていた。それと、大きくて丸いサングラスをかけていた。そのサングラスはハリウッドのセレブが好んでつけていそうな代物で、どの角度から眺めても彼には似合っていなかった。だが彼はそのサングラスを気に入っていた。それをつけていると落ち着くと彼はいった。そのとき彼はインドリコテリウムについて何一つ知らなかった。史上最大の陸生ほ乳類であり、身をかがめて草を食べることができないために絶滅した動物のことを。
 わたしはテーブルの上に銃があることを想像した。それは重たく冷たい、それでいて実用的な銃だ。それはどこにでもある名刺入れのようにそこにある。彼がそれを持ってきたのだろうか。前にいた客の忘れ物だろうか。それとも、「ご自由にお使いください」という、店の配慮だろうか。わたしにはわからなかった。見えない銃は、ただそこにあった。
 
 彼はそれをどうするのだろう。それを持って、向かいにある銀行に行くつもりなのかもしれない。カバンの中から――尻ポケットのほうがしっくりくる――それを取り出し、店にある金をすべて、一円玉すら含めてすべて出すように要求するのだろう。わたしはその光景を彼の一歩後ろから眺めている。怯えてはいない。興奮してもいない。ただ見ている。彼は怯えた店員から金をむしり取り、バッグの中にいれ、ときどき振り向いてわたしを見る。サングラスの向こう側はよく見えない。口元だけが見える。彼はわらっている。いや、彼はわらっているのだろうか。もしかしたら悲しんでいるんじゃないだろうか。怯えているのかもしれない。だって、銃に弾は入っていないのだから。
    いったい誰が、いったい誰が彼におもちゃの銃で銀行を襲わせたのだろう。シャツの第一ボタンまで締めた、中年の、気の強そうな太った女がわたしを見る。女は床にうずくまっている。カバンと見間違えそうなほど大きな紫色の財布を、取られまいと握りしめている。その目は凍りついているような目だ。蔑んでいるような目だ。呆れているような目だ。その目を、わたしは知っている。女の目は、突如、勝ちほこった目に変わる。遠くでサイレンの音が聞こえる。徐々にそれが近くなってくる。彼は慌てる。わたしは、ただ立っている。女からの視線を、ただ受けている。彼はわたしの腕をつかみ、外へ連れ出そうとする。わたしは拒否する。わたしはあの女に言ってやりたかったのだ。羨むべきだと。あんたはわたしを羨むべきなんだ、と。だって、命がけでばかをやる人間に、わたしは愛されているのだから。バッグから金が逃げる。彼はそれらを拾い集めながら、わたしを見る。わたしも拾うのを手伝う。一万円札を、百円玉を、ボロボロのボストンバッグに詰める。チャリン、という音が鳴る。ふと、ネイルを塗りなおしてこなかったことに気づき、悲しくなる。彼はそのネイルを、きれいだね、と言ってくれたのだ。わたしは、自分の準備不足を嘆き、金を拾う。昔からどうしてこうなんだろうと自分を罵り、金を詰める。ボストンバッグは彼が中学生のころから使っているもので、大きなアディダスのロゴが描いてある。わたしは、なんだかそれがすごくおかしくなって、一時、ネイルのことを忘れた。われわれは逃げる。息を切らしながら路地裏を走り、中華屋の厨房を突き抜け、コンクリートの塀を乗り越える。走りながら、わたしは考える。お金を持って、どこへ行くのだろう。わたしたちはどこへ向かうのだろう。わたしは妄想する。パリ。それもいい。別にどこだっていい。アラスカでもいい。ミャンマーでもいい。鳥取でもいい。草津でもいい。でも、当分は彼の部屋の、ほこりっぽいベッドの上がいい。わたしはそこが世界で一番すきだ。少なくとも、今のうちは。
 
 店を出て、わたしは彼の腕を引っ張り、アパートのあるほうへと歩き出した。途中でコーラを二本とかぶを買った。「マリファナって吸うとどうなるのかな」と彼は言った。わたしたちは吸った後のことを想像しながら歩いた。「聞いた話によると」彼は言った。「頭の中にカエルが住み着いたような気分になるらしいぜ、こわいよな」
 空は晴れていた。銀行は襲わなかった。

ぎゃふん  

 

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 ある日ふとねこにぎゃふんと言わせてやりたくなったのでぼくはねこを膝の上に抱え「おい、ぎゃふんと言ってみな」と声をかけた。
 
 ぼくが飼っている(というかいつの間にか居座っている)ねこは優秀で、読み書き計算以外はなんでもできた。つい先日も調子の悪かったエアコンがぼくの留守中に元気を取り戻していて、散らかった部屋にはマイナスドライバーと半田ごても転がっていたので、ねこに、「もしや、おまえが直したのかい?」と聞いたら、あいつは誇らしげにみゃおと鳴いた。だからぎゃふんと言うことぐらい朝飯前だと思っていたのに、ねこは、まるでねこのように、うんともすんとも言わなかった。知らない人のために言っておくが、ねこにぎゃふんと言わせることは想像以上に大変なことであり、もっと知らない人のために言っておくと、ねこというものは四足歩行をする全身に毛の生えた愛くるしい哺乳類のことで、好奇心は強いくせに警戒心もまた強い。
 
 で、少なくともうちのねこはエアコンの修理はできても、「ごはん」も「ダンケシェン」も言うことができないようだった。幾日かねこにぎゃふんと言わせようと試みたが返ってくるのはいつもの甘い鳴き声で、それゆえにいつの間にかぎゃふんと言わせたいぼくの気持ちもすっかり姿を隠してしまい、ねこもまたぎゃふんと言わされないことに安心しているようだった。
 
 春がすぎ夏がきて、秋が去りまた冬を迎えた。ねこはあいからずぎゃふんと言うことはなかった。それどころか、何も言ってくれなくなった。食欲が少なくなり、下痢をするようになり、ぼくがうちに帰ってきても飛びついてくることはなく、赤い座布団の上で彫刻のように丸まっているだけだ。休日に病院へ連れていくと「老齢ですね」と丸眼鏡をつけた太った医者が違反切符を切る警察官のような事務的な声でそう言った。
「元気がないんですよ」ぼくは言った。「ここ最近ずっと元気がなくて、食べたものも吐いちゃうんです」
「それはさっき聞きました」
「家に帰ってきても飛びついてこないんです、ずっと寝てるんです」
「それも聞きました、老齢です」
 ぼくは腹を立て、ぐっと歯を食いしばった。ねこを抱え、家に帰った。
 それからしばらくしてねこはまったく何も言わなくなった。
「ぎゃふんと言ってみな」とぼくは言った。「なあ、ぎゃふんと言ってみなって」
 

津軽

     
 斎藤くん。なぜ生きているのかと、わたしはときどき自分へ訊くのですが、するとその問いは、なぜ死なないのかと、そのように勝手に変換されわたしの元へ届き、それは、わたし自身を、ひどく混乱させます。わからないからです。
 なぜ生きるのか、ではありません。その形式での問いを、学者もどきたちは使いたがり、わたしもまた最初はそうでしたが、しかしそれだとなにか違和感を覚えるのです。生きることを肯定的に捉えている人たちは、あまり考えることもせず生きているから、そのような「なぜ生きるのか」というトンチンカンな疑問に行きついてしまうのでしょうが、その問いに対する答えは至極簡単なことで、「生まれてきてしまったから」に他ならないでしょう。生まれることは自分の意思ではどうこうすることもできず、母親の腹の中での生命たちは、とりあえずさっさとこの地に出てこようと必死なわけです。なぜ生きるのか、そう問う人たちにとっては、生きることそのものがこの世でもっとも尊きものであり、生きることそのものがこの世で唯一の目的なのでしょうか。だとするならば、一五〇歳まで生きようと、二百七十九歳まで生きようと、勝手に死ぬまで生きていればいい。 続きを読む

 斎藤くん。わたしは、ある人に惚れた。昔から人に惚れやすいのか、ちょっとやさしくされたり、くすりと笑ってくれたり、小説の好みが似ていたりすると、それだけで惚れてしまうようなのです。
 ばかみたいでしょう。じじつ、わたしはばかなのです。ばかではあるけれど、そのことをマイナスに思うことはなく、むしろ、「ああ、ばかでよかった」と思うことのほうがほとんどです。ばかであることはいいことです。ばかであることを知ることで、知らないことがたくさんあるという事実に気がつけます。これはばかの特権なのです。ばかじゃない人たち、頭のよい人たちのほとんどは、自分がばかじゃないと思っています。おそらく、ばかじゃないと思います。わたしから見れば、やっぱりその人たちは、ばかじゃない。要領はよく、お金の稼ぎかたも知っている。むつかしい言葉も知っているし、学歴だって、立派なもので、恋をするときだって、おそらく知的に振る舞って、上手にするのでしょう。 続きを読む

明大前の女の子

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 本を手にしている人をみかけると、何を読んでいるのか気になってしまう。いったいいつからその癖が始まったんだろう。また、いつになれば終わるんだろう。そのときぼくが考えていたのは、だいたいそんなことだった。
 
 朝六時十三分の駅のホームには、オレンジ色の太陽の光がひっそりと差し込んでいた。ぼんやりと渋谷行きの電車を待っていると、ふと斜め前にいる少女に目がいった。その子は紺色の制服を着て、レンズの厚い黒ぶちめがねをかけていた。背丈は大人の胸元あたりまでしかなく、おそらく小学校の中学年か、もしくは高学年ぐらいだった。フェルト生地の帽子は、まるで生まれたときからそこにあるかのようで、帽子からぶら下がっているようにも見えるきれいな三つ編みには、一定の品格が保たれていた。
 彼女は分厚い本を、枝のように細い両腕で支えるように持っていたが、特に苦にしているようには見えなかった。ぶらりぶらりと頭をゆらしているのは頭が重いのか足腰が弱いのか、それともただリズムをとっているだけなのかぼくにはわからなかったが、いくらか滑稽ともいえるその姿は、寒々とした駅のホームにとてもよく馴染んでいた。
 ぼくは何の気なしを装い少女のとなりに並んだ。もちろん本の背表紙を眺めるために。けれども髪の毛が伸びっぱなしで、目の下にはくまもあり、見た目だけでいえば変質者とも思われてもおかしくないぼくとしては、行動の選択に注意する必要があった。過ぎた行動をとればすぐに笛がなり、駅員が時速400キロのスピードで追いかけてくる。大丈夫。身分も立場もそれなりにわきまえている。ちょっと背表紙をしっけいするだけだ。そう考えながら視線を向かいのがらんとしたホームや、手元にあるディケンズの短編集に向けていた。
 しばらくして、ぼくはその少女の手を見た。その小さな手の、さらに小さく丸い彼女の親指はやさしくページをつかんでいて、それがぼくを喜ばせた。その姿は愛らしく可愛げで、さらにいえば親しみがあった。そういう姿を見るだけで、ぼくはほんとに満足してしまう。
 読むのに疲れたのか、彼女はふぅと小さな息を吐き、パタンと本を閉じた。そして当然のように視線をこちらに向けた。ぼくはその視線に気づいていないふりをするのに必死だった。もしかしたら視線の先はぼくではなく、延々と続く線路の先のだったのかもしれない。汽笛が鳴った。電車がきた。
 ぼくは読んでいた本から目を外した。いや、そもそも読んでなどいなかった。その光景の前ではディケンズの言葉などまやかしでしかなく、すべての文字は記号としてしか作用しなかった。気がつけばホームは人で満ちていた。彼らがそわそわと電車に乗り込む準備をするなかで、彼女は凛とした姿勢を保ちその場に立っていた。口元はきつく結ばれ、さっきまで見せていたふらふらとした動作もしていない。彼女の右腕に抱えられた本の背を見ると、なんとなく安心したような、少し残念であるような、そんな気分になった。ハリーポッターだった。なるほどね、そうだよね、とぼくは自分に言い聞かすようにひっそりと口ずさんだ。いったい何を期待していたのだろう。吉本ばななでも読んでいたら嬉しかったのだろうか。わからない、おそらく、ほんの少しは嬉しかった。ほんの少しは。
 そのときふと、彼女と友だちになれたらいいな、なんてことを考えた。一回り以上年下の女の子と本について話せたら、きっと楽しいだろうと、そう考えたのだ。彼女と、いや別に彼女とではなくてもいいのだけれど、「どんな本を読んでるの?」なんていう会話をしてみたいなと思っただけだ。ぼくの周りにはそういう会話をできる人がいない。いても、なんだかひどく疲れてしまう。大人になると本を読まなくなるのか、それとも、大人は本を読まないのか。そこらへんはよくわからない。
 
 きっと彼女はこんな質問をする。
 ねえ、なにかおすすめの本はある?
 ぼくは答える。
 そうだなあ、サガンとかいいと思うよ。
 サガン
 フランスの女性作家だよ。
 フランス!!
 
 サガンは、特別好きな作家というわけでもない。けれど、サガンを読んでいる女の子ってなんだか知的でいいじゃないか。もちろんファッションとして読んでいる人はまったく好ましくない。サガンドルチェ&ガッバーナじゃない。ぼくが思うのは、ああいった詩的な言葉の美しさにただただうっとりしている女の子というのは、すごく好感が持てるということ。彼女はきっとサガンを気に入る。
 ぼくと彼女はときどき暇が合えばコメダコーヒーに行き、あの意味不明なインテリアに囲まれながら、そんな会話を飽きもせず続ける。どの本が好きだとかそんなことを。長靴の形をしたかわいらしいグラスに入った、やけに大きいメロンソーダを彼女は頼み、ぼくはたいしておいしくもないコーヒーか、甘いミックスジュースを頼む。あずきトーストだって頼むだろう。三分に一回、あの気の利きすぎる店員が水を足しにくる。「マドモアゼル、お冷をどうぞ」あれはマニュアルなのだろうか。でもそんなのに構うことなくわれわれは話を続ける。彼女は気に入った箇所に赤ペンで線を引いていて、その部分をこっそりと恥ずかしそうに教えてくれる。もちろんぼくも気に入る。そしてそれをしっかりとノートにメモをする。話は音楽や映画にだって飛び火するだろう。彼女が望めば、学校のことにだって耳を傾けるつもりだ。算数のわからないところだって教えてあげるだろうし、逆上がりの練習にだって付き合う。でも、つまらない会話はしない。友達の悪口とか、ずっとずっと先の将来のこととか。彼女が何かに悩んでいるなら、ぼくは必死になって言葉を探す。それが何かの本に書いてあった言葉かどうかなんて気にしない。とにかく必死になって探すだけだ。あるいは本をプレゼントするかもしれない。彼女は薄暗い部屋のすみで、晴れ渡った屋上で、公園のベンチで、駅のホームで、ひっそりと悲しんだり、笑ったり、怒ったりする。ぼくがそうだったように、ぼくが好きな小説の中からヒントを見つけ出したときのように。
 
 電車の扉が閉まるぎりぎりに、彼女はゆっくりとした動作で背中から乗りこんだ。周りの大人たちに囲まれる彼女の姿は、やっぱりただの少女だった。背丈は周りの大人の半分ほどしかない。その電車を見送る意味も理由もなかったが、ぼくはそうした。見送らない理由があるのだろうか。時間に追われているわけでもなければ、どこに向かうのかさえわかっていないのだから。
 電車はゆっくりと動き出し、やがて見えなくなった。人がいなくなったホームにはまた人が集まりだし、空に一羽のカラスが現れた。凛々しい大きな羽根を落ち着かせ、まるでぼくを見ているようだった。やあ、とぼくは話しかけたね。きみは最近どんな本を読んだ? 黒いその鳥は、かあ、と鳴いただけだ。実にいい感じで、かあ、と鳴いたんだ。
 
 
 

染み


「ものをもつことよりも捨てることのほうがむずかしいのさ。画家だって継ぎ足すよりそぎ落とすほうが難しいっていうしね」
「捨てちゃうの、全部?」
「まあね。捨てるかもしれないし、捨てないかもしれない。できれば捨てたいな。だって、不要なものばかりだからな」そう言うと男は部屋のなかを見渡した。「本もだな、おれは小説が好きだ。うん、小説が好きなんだよ」
「知ってる」
 男は立ち上がり、本棚の前まで進むと、一冊の本に指をかけ、二センチ手前に傾けた。しかし取り出すことはせず、また棚の中に押し戻した。
「いや、どうだろう。おれは小説を好きでもなんでもないのかもしれない。ただ読んでいるだけだ。人よりも読んでいることはたしかだし、今までずっと小説を読むのが好きだとばかり思っていた。でも、好きなのかどうか、よくわからなくなってきた」
「来週のサーカスには行くの?」
「いや、行かない」
「どうして?」
「行けたら行くよ。熊は見たいし。でも、いまのところは行けない。なあ、おまえは小説についてどう思う。その、おまえもたまには小説を読むだろう。いや、小説は読まないかもしれないが、絵本ぐらいは読むだろう。どういう気持ちで読むんだい」
 六歳になったばかりの少女はその質問に答えなかった。うつむき、ラグの毛をちいさな指でむしりとっていた。
「なあ、そうするのはよくない」男はやさしくそう言って、その場にしゃがみこんだ。少女の手は止まらず、毛づくろいをするねこのようにラグをむしった。男は彼女の顔を覗き込もうとしたが、彼女は頭のてっぺんを彼に向けたままだ。
「おい、やめるんだ」男は少し語気を強めていった。
 一瞬、妹の手は止まったが、すぐにまたむしりだした。「これ、見て。染み」
「そうだな、染みだ」
「いつからあったのかな。もう、ずっと前からあったのかな」
「ずっと前からあったのかもな。なあ、昼飯の時間だ。何が食べたい?」
「パスタ。ミートソース」
「よし。ミートソースパスタならすぐ作れる。ちょっと待ってろ」
 兄は立ち上がり、妹の頭をポンポンと叩きいた。それからキッチンへと向かった。
 妹は兄の背中を一瞬だけ見たが、すぐにラグの染みに目を戻し、微笑んだ。その染みがいつからそこにあるのか、彼女は気になっていた。その染みがいつかなくなるのかも、彼女は気になっていた。なくなってほしくないのか、それともなくなってほしいのか、彼女は自分でもよくわからず、それもまた気になっていた。いつかなくなるのだろうか。いつかなくなり、さらにその染みを覚えているわたしと兄がいなくなったとしたら、その染みは最初からなかったことになるのだろうか。
 彼女を悲しみに似た感情が襲った。しかしそれは悲しみではなかった。似ているが、ちがっていた。
「ほら、最高のミートソースパスタができたぞ」兄は、湯気が沸き立つ皿を二つ持って戻ってきた。
「いつもとおんなじ味のやつ?」
「そう、百回作ってもおんなじ味だ。まったく、レトルトってのは偉大だよ」
 テーブルを使わず、ふたりはラグの上に座ってパスタを食べた。テーブルの上には読みかけの小説と、途中で放置したままのぬりえがあったから。
 また染みができるかもしれない、と彼女は思った。フォークの上に乗ったソースをちょっぴりと落とそうか彼女は悩んだ。怒られるかもしれないけど、それでもいいと、彼女は思った。