ぎゃふん  

 

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 ある日ふとねこにぎゃふんと言わせてやりたくなったのでぼくはねこを膝の上に抱え「おい、ぎゃふんと言ってみな」と声をかけた。
 
 ぼくが飼っている(というかいつの間にか居座っている)ねこは優秀で、読み書き計算以外はなんでもできた。つい先日も調子の悪かったエアコンがぼくの留守中に元気を取り戻していて、散らかった部屋にはマイナスドライバーと半田ごても転がっていたので、ねこに、「もしや、おまえが直したのかい?」と聞いたら、あいつは誇らしげにみゃおと鳴いた。だからぎゃふんと言うことぐらい朝飯前だと思っていたのに、ねこは、まるでねこのように、うんともすんとも言わなかった。知らない人のために言っておくが、ねこにぎゃふんと言わせることは想像以上に大変なことであり、もっと知らない人のために言っておくと、ねこというものは四足歩行をする全身に毛の生えた愛くるしい哺乳類のことで、好奇心は強いくせに警戒心もまた強い。
 
 で、少なくともうちのねこはエアコンの修理はできても、「ごはん」も「ダンケシェン」も言うことができないようだった。幾日かねこにぎゃふんと言わせようと試みたが返ってくるのはいつもの甘い鳴き声で、それゆえにいつの間にかぎゃふんと言わせたいぼくの気持ちもすっかり姿を隠してしまい、ねこもまたぎゃふんと言わされないことに安心しているようだった。
 
 春がすぎ夏がきて、秋が去りまた冬を迎えた。ねこはあいからずぎゃふんと言うことはなかった。それどころか、何も言ってくれなくなった。食欲が少なくなり、下痢をするようになり、ぼくがうちに帰ってきても飛びついてくることはなく、赤い座布団の上で彫刻のように丸まっているだけだ。休日に病院へ連れていくと「老齢ですね」と丸眼鏡をつけた太った医者が違反切符を切る警察官のような事務的な声でそう言った。
「元気がないんですよ」ぼくは言った。「ここ最近ずっと元気がなくて、食べたものも吐いちゃうんです」
「それはさっき聞きました」
「家に帰ってきても飛びついてこないんです、ずっと寝てるんです」
「それも聞きました、老齢です」
 ぼくは腹を立て、ぐっと歯を食いしばった。ねこを抱え、家に帰った。
 それからしばらくしてねこはまったく何も言わなくなった。
「ぎゃふんと言ってみな」とぼくは言った。「なあ、ぎゃふんと言ってみなって」