ある午後の妄想

f:id:kangaeruhibi:20200105032930j:plain

 そのとき彼はインドリコテリウムについて何一つ知らなかった。史上最大の陸生ほ乳類であり、体が大きいせいで環境の変化に適応できず絶滅した象のことなど、知らなくて当然だ。誰だって知らない。
 わたしたちは家の近くにある、汚く狭い喫茶店にいた。ほかには誰もいなかった。店主さえほとんどの時間いなかった。カーテンのない窓際の席に座っていた。テーブルにはジンジャーエールとアイスティーがあった。ジンジャーエールは炭酸が抜けきっていて、アイスティーは砂糖水より甘かった。わたしたちは交互に煙草に火をつけた。煙を吐き出しながら、二分後には忘れてしまう会話を楽しんでいた。底にバンビの絵が描いてある黄色の灰皿に灰を落としながら、彼は、帰りに盗んでしまおうという目をしていた。
 彼はよれよれのティーシャツを着ていた。それと、大きくて丸いサングラスをかけていた。そのサングラスはハリウッドのセレブが好んでつけていそうな代物で、どの角度から眺めても彼には似合っていなかった。だが彼はそのサングラスを気に入っていた。それをつけていると落ち着くと彼はいった。そのとき彼はインドリコテリウムについて何一つ知らなかった。史上最大の陸生ほ乳類であり、身をかがめて草を食べることができないために絶滅した動物のことを。
 わたしはテーブルの上に銃があることを想像した。それは重たく冷たい、それでいて実用的な銃だ。それはどこにでもある名刺入れのようにそこにある。彼がそれを持ってきたのだろうか。前にいた客の忘れ物だろうか。それとも、「ご自由にお使いください」という、店の配慮だろうか。わたしにはわからなかった。見えない銃は、ただそこにあった。
 
 彼はそれをどうするのだろう。それを持って、向かいにある銀行に行くつもりなのかもしれない。カバンの中から――尻ポケットのほうがしっくりくる――それを取り出し、店にある金をすべて、一円玉すら含めてすべて出すように要求するのだろう。わたしはその光景を彼の一歩後ろから眺めている。怯えてはいない。興奮してもいない。ただ見ている。彼は怯えた店員から金をむしり取り、バッグの中にいれ、ときどき振り向いてわたしを見る。サングラスの向こう側はよく見えない。口元だけが見える。彼はわらっている。いや、彼はわらっているのだろうか。もしかしたら悲しんでいるんじゃないだろうか。怯えているのかもしれない。だって、銃に弾は入っていないのだから。
    いったい誰が、いったい誰が彼におもちゃの銃で銀行を襲わせたのだろう。シャツの第一ボタンまで締めた、中年の、気の強そうな太った女がわたしを見る。女は床にうずくまっている。カバンと見間違えそうなほど大きな紫色の財布を、取られまいと握りしめている。その目は凍りついているような目だ。蔑んでいるような目だ。呆れているような目だ。その目を、わたしは知っている。女の目は、突如、勝ちほこった目に変わる。遠くでサイレンの音が聞こえる。徐々にそれが近くなってくる。彼は慌てる。わたしは、ただ立っている。女からの視線を、ただ受けている。彼はわたしの腕をつかみ、外へ連れ出そうとする。わたしは拒否する。わたしはあの女に言ってやりたかったのだ。羨むべきだと。あんたはわたしを羨むべきなんだ、と。だって、命がけでばかをやる人間に、わたしは愛されているのだから。バッグから金が逃げる。彼はそれらを拾い集めながら、わたしを見る。わたしも拾うのを手伝う。一万円札を、百円玉を、ボロボロのボストンバッグに詰める。チャリン、という音が鳴る。ふと、ネイルを塗りなおしてこなかったことに気づき、悲しくなる。彼はそのネイルを、きれいだね、と言ってくれたのだ。わたしは、自分の準備不足を嘆き、金を拾う。昔からどうしてこうなんだろうと自分を罵り、金を詰める。ボストンバッグは彼が中学生のころから使っているもので、大きなアディダスのロゴが描いてある。わたしは、なんだかそれがすごくおかしくなって、一時、ネイルのことを忘れた。われわれは逃げる。息を切らしながら路地裏を走り、中華屋の厨房を突き抜け、コンクリートの塀を乗り越える。走りながら、わたしは考える。お金を持って、どこへ行くのだろう。わたしたちはどこへ向かうのだろう。わたしは妄想する。パリ。それもいい。別にどこだっていい。アラスカでもいい。ミャンマーでもいい。鳥取でもいい。草津でもいい。でも、当分は彼の部屋の、ほこりっぽいベッドの上がいい。わたしはそこが世界で一番すきだ。少なくとも、今のうちは。
 
 店を出て、わたしは彼の腕を引っ張り、アパートのあるほうへと歩き出した。途中でコーラを二本とかぶを買った。「マリファナって吸うとどうなるのかな」と彼は言った。わたしたちは吸った後のことを想像しながら歩いた。「聞いた話によると」彼は言った。「頭の中にカエルが住み着いたような気分になるらしいぜ、こわいよな」
 空は晴れていた。銀行は襲わなかった。