ただそれだけのこと


夜、喫煙所から街の灯りだったり海に反射する星々を眺めたいると、ぼんやりと考えごとをしてしまう。いまはなにをしてるんだろう、ねこと戯れているのかなあ、それともなんだろう、知らない誰かといたりするのかなあとか、そんなことを。


何から話そうか。
ここに来る前、きみのベッドのなかで、自衛隊に行くって伝えたときのことを覚えてるかな。七月の終わりかそこらのことで、ぼくはその日までなんら迷いもなく、横須賀だろうと舞鶴だろうと月の裏側だろうと、どこにだって行くつもりだった。戦争が始まれば銃を持ち、二、三歩進んで地雷を踏んでさようならになったとしても、それでいいと思っていた。自衛隊に行くと決めたのは、大した理由があるわけじゃない。小林秀雄とか池田晶子の本とか、あとはその時期に読んだストーナーにいくらか影響を受けたけれど、なんでもよかったんだ。ただ、何かにのめり込みたかった。

だからというか、きみに入隊することを伝えても、軽い反応しか返ってこないだろうと思っていた。「ああ、そうなのね。頑張って」「暇があったらごはんでも行こうね」とか。それで終わってしまうだろうと思っていた。きみはちがう誰かと会うようになるんだろうなって。でも、きみはしくしくと泣いてくれ、きみなりの抵抗を示してくれ、正直、それがすごく嬉しかった。同時にすごく混乱してしまってさ、ついさっきまでなんの迷いもなかったくせに、広報官に断りの電話を入れようか考えたぐらいだった。ほんとうに。

今さら言うことでもないのだろうけど、ぼくたちは付き合ってない。きみのことを彼女といえる立場にぼくはいなくて、当然ながら、ぼくはきみの彼氏でもない。じゃあなんなのかと誰かに問われても、困ったアザラシみたいな顔をするしかない。いっしょにご飯を食べたり、温泉に浸かったり、長い散歩をしたりする仲ではあるけれど、ただそれだけと言ってしまうこともできる。どちらかからの告白もなく、ただ会いたいから会っている。義理や義務もない。形はない。概念すらない。

それでもなんら問題はないと考えていた。人に聞かれたときに答えに詰まることはあるけれど、ぼくは会いたいから会いに行き、相手も会いたいから会ってくれている。付き合うとか付き合わないとかそんなことはどうでもよくて、むしろ、言葉による拘束がないゆえに、自由で明瞭な気がした。

でもね、きみは笑うかもしれないけど、しばらく前からぼくはきみを彼女にしたいって考えていたんだよ。告白したい、付き合いたいって。きみに会うたびに、「今日は言おう」って決意するのだけれど、その決意を午後五時までに固めることができなくてね。日が暮れ始め、いそいそと帰る用意をし、着たくもない制服を着て、さよならの瞬間まであがくのだけれど、けっきょく何一つ言えず、帰りのバスのなかで「ああ、今日もまた言えなかったなあ」って、まるで子どものようにくよくよしてるわけです。

なんというか、恐いんだ。断られたらどうしようって。付き合いたくないと言われたらどうすべきなのかわからなかったし、付き合うとかそんなことをきみが求めていなかったら、なんというか、その日からどこに焦点を合わせていいのかわからなくなる気がした。
何かが変わってしまう可能性だってある。あらゆるすべてのものには終わりがあるでしょう。その終わりというものが終わりと呼ばれる所以は、その根本的理由は、始まりがあるからだ。始まらなければ終わることもなく、終わらせることを望まないのであれば、いっそのこと始まらせなければいい。

始まってしまったら、ぼくたちの関係が何かしらの呼び名を持つようになってしまったら、ただそれだけで変わってしまうことも多々あるかもしれない。これまで気にしないでいたことも気になってしまうかもしれない。見なくてもよかったことを、背伸びまでして覗き見するようになるかもしれない。

付き合っていなければ、何が起ころうと、そういうものだって割り切ることもできる。たとえばきみがぼくの知らない誰かと週末を過ごしていても、知らない誰かと昼過ぎまで眠っていたとしても、ぼくは何も言えない。何も言わない。そういうものだって自分に言い聞かす。きみがぼくではない誰かと川ぞいを歩いても、花見をする大学生を見ながらお弁当を食べたとしても、グーグルマップを使わず新宿まで目指そうとしても、大量のサザエを捕まえたり、石でウニを破壊して魚を喜ばせたり、きれいなつららに触れたり、雪を眺めながら温泉に浸かったり、甘くておいしいおはぎを食べたり、ベランダで煙草を吸ってるのを待ってくれていたり、好きだよって言われたり、もぞもぞと何か言いたそうな様子を見せた後に、わたしも好きですって言ったりしていても、それは仕方のないことなんだろうなって。

嫉妬をする権利なんてない。ましてや、口を出す立場でさえない。「彼女はぼくのものでもなんでもない」そう考えるだけなんだ。ブドウを食べることができなかったきつねみたく、ぷいっと横を向いて、あれは酸っぱいブドウだったんだとぶつくさ言いながら、気が向いたら違う果実を探しに行けばいいだけなんだ。

そう考えていたはずなのに、どうしてか、そう考えると、いまは悲しくなる。いい年をした大人が、布団の中で眠れず毛布に包まりながら、天井を眺め、あらゆる妄想を働かせ、ひょっとすると泣きそうになっている。これは悲しみとはちがうかもしれない。じゃあなんなのかと訊かれても、うまく答えられないのだけれど。

きみが誰かの話をしているとき、ぼくは平然を保って聞いているつもりだけれど、じつは内心びくびくしている。その人がどういう人か気になってしまう。いい人なんだろう、きっとかっこいい人なんだろう、やさしい人なんだろう。そんなことを思って、女々しくも嫉妬をし、いったい、なんて自分はちっぽけな男なんだと呆れ、隠そうと必死になる。昼夜を問わず考えにふけり、夢にまで見る。嫌になり、逃げ道を探そともする。どうすることもできないんだけどね。

聞いておくれ、遅かれ早かれきみは他の誰かのことを好きになるはずなんだ。まだ若く、そして美しい人だから、放っておかれるはずがない。『ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリーみたく、舌を噛みそうな名前のカクテルを飲みながら、たくさんの退屈な男たちに愛されるかもしれない。そしてポルトガル語を勉強したり、鳥かごをプレゼントしたり、アフリカあたりをうろうろしたりするのかもしれない。それはそれでいい未来な気がする。じゃあ、そのときぼくは何をしているんだろう。海の上でクジラの鳴き声を探しているかもしれない。あるいは山にこもり、小さな手作り小屋の中で生活しているかもしれない。ミルクが出てくる蛇口を作って、拾ってきた子ねこにクルムシュンデリという名前をつけているかもしれない。どこかの小さな町でアルバイトをして、一回り以上年下に怒られながらへらへらしてるかもしれない。本を読み、映画を観て、きみのことを思い出して、今ごろ何をしてるのかなって考えているかもしれない。でも、一番に望んでいるのは、どのような形であれ、きみがいてくれればな、ということなんだ。

形めいたものがほしいわけじゃなく、想いを伝える権利のようなものを、できれば有していたい。好きだよって、当然のように言いたい。昨日、耳元で言おうとしていたことは、そんな感じのこと。とても好きなんです。とてもとても。ただそれだけのこと。